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PressClub Japan · Article.

BMW Mの歴史:BMW M社創立40周年

本プレスキットの内容は、ドイツ国内市場向け(2012年5月時点)の仕様を基準として記載されており、その他の市場においては仕様、標準装備品、オプション設定などが異なる場合もあります。本プレスキットでは、車体寸法、エンジン出力などはBMW AG発表のデータとなるため、日本仕様とは異なる場合があります。なお、仕様は随時変更される可能性がありますので予めご了承ください。

BMW M
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BMW の歴史

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「企業はまるで一人の人間のようです。スポーツを楽しむことを通じて、自身を鍛え上げ、情熱を傾け、能力を向上させるのです」。1972年、BMW AGのセールス担当取締役だったロバート A. ラッツはこのように述べた。これは、当時誕生したばかりのBMW AG子会社、BMWモータースポーツ社(BMW Motorsport GmbH)に捧げられた言葉である。現在はBMW M社(BMW M GmbH)と社名が変わっているが、今なお40年前と同様に、鍛え上げられ、情熱的で、高い能力を誇っている。

70年代初頭、BMWは新たな時代の幕開けを迎える。エバーハルト・フォン・クーンハイムが率いる新しく若き取締役会は、BMWがほしいままにしている成功を戦略的に推進させる任務に取り組んでいた。この任務には、かの有名な「フォーシリンダー」ビルと呼ばれる新しい本社ビルの建設や、モータースポーツを扱う独自の会社の設立が含まれていた。ロバート A. ラッツは次のようにも語っている。「会社が経済的に急成長している最中も、BMWでは常にスポーツが原動力として一定の役割を担っていました。そのため、モータースポーツに集中的に取り組み、強化を進めるのは当然のことです」。

実際、その時点に存在したニーズや未開拓のビジネスチャンスは、従来のモータースポーツ部門が対応できる範囲を大きく超えていた。1800 TI、2000 TI、そして02シリーズはレーシング・カーとして多大な人気を誇り、連戦連勝が約束されていた。しかし、BMW自社だけではニーズのほんの一部しかカバーすることができず、車両の大部分はチューニング・メーカーが組立て、営業、販売を行っていた。すでに60年代半ばからBMWはフォーミュラ2に参戦していた。何年もの間、BMWの高性能エンジンは他のチームの追随を許さず、数多くのレースやヨーロッパ選手権でBMWによる勝利がその栄光のシーンを彩っていた。

 

 

1972年:レースに精通したチームがBMWモータースポーツ社を立ち上げ

そこで、モータースポーツに関わるこの状況を解決すべく、1972年5月1日にBMWモータースポーツ社が設立された。当時、35人のスペシャリスト・チームを率いたのはヨッヘン・ニーアパッシュだった。彼は、かつてのポルシェ・ワークス・ドライバーであり、ミュンヘンに移る前はケルンでフォードのレーシング・マネージャーを務めていた。ニーアパッシュは、その後何十年にもわたってBMWモータースポーツ社の気質を培うことになる優秀なレーシング・ドライバーたちを直ちに集めた。クリス・エイモン、トワン・ヘゼマンス、ハンス=ヨアヒム・スタック、ディーター・クエスター、そして、ラリー・ドライバーとしてビョルン・ワルデガルドとアヒム・ヴァルムボルトという錚々たる顔ぶれだ。

新会社は、数カ月後には自社の社屋に入居する。主力工場に程近い、ミュンヘン/プロイセン通りの8,000m2を超える広大な敷地に、レーシング・ワークショップ、レーシング・エンジン組立て部門、工具製作部門、エンジン・テストベンチが設置された。そこで、1973年用のレーシング・マシンが誕生した。950kgに軽量化された、2リッター、4バルブ4気筒、最高出力240psのラリー用の2002である。さらに、新しいツーリングカー・クーペが生まれたが、この車についてヨッヘン・ニーアパッシュは当初、「1973年は私たちにとってスタートの年であり、今回のヨーロッパ選手権で勝てる保証はありません」と述べていた。3.0 CSLと名付けられたこの車両は、ドアとエンジン・フードがアルミニウム製で、5速ギヤボックスにはマグネシウム・ハウジングが採用された。車重は1,092kgだった。最も注目すべきは、エンジン・フードの下に隠された3,340ccの12バルブ直列6気筒エンジンで、燃料噴射方式、圧縮比11:1、最高出力360psを実現していた。これは、BMWがレース用に製造した最後の2バルブ・エンジンとなった。

 

 

伝統的なBMWのフィロソフィー:中心となるのは人間

BMWモータースポーツ社が、1973年シーズンを迎えるにあたって準備万端に整えたのは技術面だけではなかった。ドライバーたちもまた絶好調だった。ヨッヘン・ニーアパッシュは、ドライバー・チーム全員を「ドラーバー・チューニング」のため、スイスのスキー・リゾート地であるサンモリッツに集めた。そこで、ドライバーはスポーツ・インストラクターとスポーツ心理学者から高度なトレーニングを受けた。これは、BMWが当時からマン・マシン・インターフェースの最適化を重視していたからである。そして、同様の講習をアマチュア・ドライバーに提供することも計画され、このコースは1977年以降、「ドライバー・トレーニング」と呼ばれるようになった。

このチームで、BMWモータースポーツ社は1973年シーズンに臨んだ。当初から世間の注目を集めたのは3.0 CSLクーペだけではなかった。初めて、車両トランスポーターからイグニッション・キーホルダーまで、レーシング・チーム全体で統一したデザインを使用したのだ。それは、真っ白な下地に青/紫/赤の3本ストライプが入ったデザインで、現在もBMWモータースポーツ社のイメージを特徴づけている。

モータースポーツ界ですぐに周知されたこのカラーをまとったCSLクーペは、向かうところ敵なしだった。ニュルブルクリンクのツーリングカー・レースでは、ハンス=ヨアヒム・スタックとクリス・エイモンが偉大な賞を手にし、ル・マン24時間耐久レースのツーリングカー部門でもBMWが勝利を獲得した。

 

 

当時最も成功したツーリングカー:BMW 3.0 CSL

センセーショナルなレーシング・デザインの理想的なクーペ3.0 CSLは、当時、最も成功したツーリングカーとなった。1973~1979年にヨーロッパ選手権で6回優勝し、10年近くにわたって世界のツーリングカー・シーンを席巻した。BMW 3.0 CSLはカラー・デザインが先駆的だっただけでなく、さまざまな革新技術ももたらした。1973年以降、初のBMWの4バルブ6気筒エンジンが採用され、1974年には、それから随分後に7シリーズに搭載されることになるアンチロック・ブレーキ・システムが初めて試験的に導入された。最終型では、ターボ・クーペとしては驚異的な最高出力800psを発揮するまでになった。1976年、BMWモータースポーツ社は最強のBMWツーリングカーをサーキットに投入した。ロニー・ピーターソンがハンドルを握る、3.2リッター・バイターボ・エンジンを搭載したこのCSLの最高出力は、意図的に750psに抑えられたほどである。

フォーミュラ2においてもBMWモータースポーツ社は成功路線をひた走った。マーチ社に50台の2リッター・4バルブ・エンジンが提供され、この名高いチームは全16レース中11レースで勝利を飾っている。1973年には、マーチ・チームのジャン=ピエール・ジャリエがBMWエンジンでヨーロッパ・フォーミュラ2のタイトルを獲得した。このエンジンを搭載したマーチ・レーシングカーは、10年近くにわたって2リッター部門で勝利をほしいままにし、パトリック・デパイユ(1974年)、ブルーノ・ジャコメリ(1978年)、マルク・スレール(1979年)、コラード・ファビ(1982年)というタイトル・ヒーローを生み出した。ほかのレーシング・チームからも熱いまなざしが向けられた、この2リッター4気筒エンジンは、500台以上が生産され、その大半のバージョンは最高出力が300psを超えるものだった。

1975年、BMWモータースポーツ社は大西洋の反対側に進出することを決めた。米国のIMSAシリーズに焦点を合わせると同時に、米国社会に幅広くBMWの頭文字の意味を浸透させることが狙いだった。BMWがIMSAチャンピオンシップでコンストラクターズ・タイトルに輝いたこともあり、その年の終わりには米国市民の間で「Bavarian Motor Works」の認知度は大幅に上昇した。

 

 

1976年:「ドライバー・スクール」からBMWドライバー・トレーニングに

1976年2月3日、BMW取締役会はモータースポーツ社にさらなる任務を課すことを決定した。当時「ドライバー・スクール」と呼ばれていた施設の創設である。マネージメントに提出された提案書では当初、BMWテストコースで参加者各20人の講習を年間15回、さらにサーキットで各100人の講習を年間5回それぞれ実施し、1年に合計800人が参加できるようにすることが想定されていた。「BMWグループでモータースポーツ関連の活動全般を担当するBMWモータースポーツ社は、マン・マシン・システムの一端を担うドライバーの能力向上に貢献したいと考えています」。これは、BMWドライバー・トレーニングの初めての広告の要となる文章であり、その言葉は現在も生き続けている。

BMWドライバー・トレーニングの理念には当初から、参加者のトレーニング用にBMW車両を提供することが含まれていた。この独自性高い特徴は長年変わらず引き継がれている。そのため、すべての参加者が同じ技術的ベースに立つことができるとともに、参加者は自分の愛車のタイヤが摩耗するのを心配しないですむのである。このフィロソフィーを実現するために、当時、理想的なトレーニング用マシンとして最高出力125psのコンパクトなBMW 320iが開発された。この車両には、特別に調整されたサスペンション、40%のリミテッド・スリップ・ディファレンシャル、ドライバー用のバケット・シートが装備された。こうして、最初のBMWドライバー・トレーニング用車両の一団は準備万端となった。

インゴルシュタット近郊のマンヒング軍用飛行場で最初の試験カリキュラムが行われた後、BMWドライバー・トレーニングのプログラムが完成し、1977年1月13日にはラウノ・アルトネンがBMW初のチーフ・インストラクターとして正式に契約を結んだ。アルトネンは自身の経験をサーキットに反映させただけでなく、当時としては唯一のドライバー・トレーニングをテーマにした「Revolution am Steuer(ドライビングの革命)」という専門書も著した。カリキュラムの内容を具体的に説明したこの本は、瞬く間に完売となった。ドリフトの巨匠は現在もそのスキルをBMWドライバーに伝授しているが、今日に至るまでの間には焦点が安全性の向上に当てられるようになっている。

 

 

初の一般道路用の「ホットな」BMWが誕生

1970年代後半まで、モータースポーツ社はレーシング・カーのみを製造していた。たとえば、グループ5ではニューBMW 320が02シリーズの成功を引き継いでいた。しかし、レーシング・ドライバーだけでなく、BMWファンなど一部の熱心な顧客がレース・コース以外でもM Powerを熱望したことに応えて、1974年に初の「ホットな」5シリーズ、530、533i、535iが誕生した。これは、それまでの量産車とはエンジンが異なっているだけではなかった。BMWモータースポーツ社のエンジニアはサスペンションとブレーキにも注目し、上品なルックスのセダンでありながら、同時に高度な技術をベースにしたスポーツ・カーであるという車を実現した。販売台数は始めこそ少なかったが、年月とともに伸びるようになり、1980年までに、最初の5シリーズをベースにした車両は合計895台販売された。

 

 

1978年にセンセーションを巻き起こしたスポーツ・カー:BMW M1

次のプロジェクトの目標となったのは、モータースポーツ社初の、量産車を基にしないレーシング・カーを作り上げることだった。それが、BMWの技術をベースにしてランボルギーニがボディとフロア・パネルを提供する予定だったBMW M1である。しかし、ランボルギーニの財政問題により、作業は大幅に遅れた。結局、新しい生産チェーンを探し出す必要が生じ、BMW M1の生産はさながらパズル・ゲームのように行われることになった。スペース・フレームはマルケージ社、ガラス繊維強化プラスチック製ボディ・シェルはT.I.R.社が製造した。モデナに拠点を置くこの両社のコンポーネントをジョルジェット・ジウジアーロのイタルデザイン社が組み立て、インテリア装備も供給した。その後、車両はシュトゥットガルトへ輸送され、バウア社によってすべての機械部品が組み込まれた。

当初計画された投入時期からはすでに大幅に遅れていたため、モータースポーツ社の責任者ヨッヘン・ニーアパッシュは、バーニー・エクレストンおよびマックス・モズレーと協力してProCarシリーズを誕生させた。このシリーズは、1979/80年シーズンの主なヨーロッパF1グランプリの前座レースとして実施された。

モータースポーツに参戦するためのFIAグループ4のホモロゲーションを取得するには、最低400台を生産する必要があった。

そこで、わずか1.14mと車高の低いミッド・エンジンのM1が、一般道路仕様で購入できるようになった。こうして、Mエンブレムを装着した最初の車両が市場導入された。この277psのレ―シング・カーの価格は1978年当時ちょうど10万マルクだったが、需要は供給能力を大幅に上回った。1年後には130台が完成したが、それでもまだ、300台以上が予約待ちの状態だった。1979年に自動車専門誌が行ったテストで264.7km/hを達成するなど、M1は当時ドイツで最速のロード・スポーツ・カーと謳われていたのだ。「たとえば、213km/hで4速から5速にシフトチェンジするだけで、その後は、スムーズに最高速度まで加速され続けます」と試乗者は述べている。後にF1世界チャンピオンになったアラン・ジョーンズを含め、多くの顧客がこれを評価した。

とはいえ、レーシング・カーとこの車両とでは比較にならないのは事実である。470psのProCarレーシング・カーは、300km/hよりはるかに速く走行可能だった。1979年、すでに2回のF1世界チャンピオンに輝いていたレーサーのニキ・ラウダは、このクルマで大きな注目を集めた。M1 ProCarシリーズの8回のレースにおいて、ニキ・ラウダは3勝し、2位を1回獲得した。米国では、IMSA GTOクラスでライバルを連破した「レッド・ロブスター」チームのM1が大旋風を巻き起こした。

M1で成功したというイメージは、モータースポーツ社にとって、さらに別の車両を生み出すための原動力となった。1980年、5シリーズをベースにして、635CSiの2バルブ6気筒エンジンを搭載したM535iが開発・製造された。出力218psのエンジンにより、5シリーズは追い越し車線の王者となった。

 

 

1980年にF1で大注目:世界チャンピオンに輝くターボ・エンジンをBMWが開発

1980年にヨッヘン・ニーアパッシュがモータースポーツ社を退社し、レーシング・マネージャーの後任にディーター・スタパートが就任した。技術担当取締役には、1969年からBMWレーシング・エンジンを担当しているパウル・ロシェが任命された。80年代初めにBMWがロシェの能力をモータースポーツの最上位クラスでも生かすことを決定すると、彼は一躍中心的存在となった。1980年4月、BMWは正式にF1への参加を表明したのである。これにより、モータースポーツ社のエンジニアたちに、初のBMW F1エンジン開発へのゴーサインが出された。

「エンジンの魔術師」パウル・ロシェの専門家チームは、排気量わずか1.5リッターの量産型4気筒エンジン・ブロックから驚異的な800psのF1エンジンを作り上げた。それを可能にしたのは、F1に初めて採用されたデジタル・エンジン・エレクトロニクス制御による16個のバルブとターボ・チャージャーである。

1年後には早くもトレーニング車両が完成し、1982年からはブラバムが初のBMWエンジンでグランプリに参戦した。このターボ・エンジンは、最初からレース・コースで優位性を示し、続く1983年には大きな勝利を手にしている。デビューのわずか630日後に、ブラジル人ドライバーのネルソン・ピケがブラバムBMWで世界チャンピオンに輝いたのである。BMWは1987年までに、この素晴らしいエンジンでグランプリ優勝を9回果たした。

Mターボ・エンジンの提供を受けたのは、ブラバムだけではなかった。アロウズは1984~1986年、ATSは1983/84年、リジェは1987年にMパワー・ユニットを採用している。1986年には、ベネトンのゲルハルト・ベルガーがメキシコで優勝を飾り、それがこのターボ・エンジンの最後の勝利となった。1年後、米国の専門誌「Road & Track」の企画で、テオ・ファビによるベネトンB186の性能デモンストレーションが行われた。出力900psのモノポストは、ちょうど4.8秒で100mph(160km/h)に達した。この4気筒エンジンの最高出力は、実際にはこれを大幅に上回っていたとパウル・ロシェは見ていた。「おそらく約1,400ps程度だったのだと思いますが、エンジン動力計の目盛りが1,280psまでしかなかったので正確な値は分かりません」。

あまり注目されなかったが、1983年にはもう1つ重要な出来事があった。BMWモータースポーツ社は、高性能志向の開発会社として業務を拡張することになったのだ。これを受けて、成功街道をひた走るこのBMW子会社は従業員数も380人に増員した。卓越したBMW製品の開発、設計、テストに加えて、モータースポーツ組織、管理、ワークショップが重要な業務として割り当てられた。これらの業務に必要なノウハウを提供するため、エンジンおよびサスペンション・テクノロジーについて個別の開発センターが設立された。また、モータースポーツ社は外部に対しても、高度に発達した自動車技術を幅広く提供するのみにとどまらなくなっていた。

アクセサリの販売や、個別のカスタム仕様・装備を施した車両に対するニーズの高まりに伴い、売上高に占めるこれらの割合はすでに相当なものとなっていた。

 

 

M1 6気筒エンジンを量産車に搭載:M5およびM635CSi

1984年にはモータースポーツ社から、高性能でスポーティな車両のファンが目を輝かせるようなトップニュースがもたらされた。M635CSiクーペとM5に、M1の高回転型の4バルブ直列6気筒エンジンが組み合わされたのだ。特に、プロイセン通りで1つずつ手作業により組み立てられているM5は、瞬く間に伝説的存在となった。それはまさに羊の皮を被ったオオカミであり、最高出力は286psと、518iのほぼ3倍に達した。外観は一目では量産シリーズと区別できないが、最高速度245km/hのM5が難なく追い越して行く様子を見て、フル・アクセルで走行する大型セダンやスポーツ・カーの多くのドライバーは目を見張ったものである。そして、「ビジネスマンズ・エクスプレス」という表現が誕生した。

 

 

1986年:最も成功したツーリングカーであるM3がデビュー

F1での活動が終了すると、モータースポーツ社は新たにツーリングカー・レースにエネルギーを投入するようになった。そして、1986年にBMW M3が誕生した。この2ドアのコンパクト・カーにより、BMWで初めて量産車とモータースポーツ仕様車の一貫した並行開発が実現された。ツーリングカーとして承認を得るには1年間で5,000台を生産しなければならず、そのため、ロード仕様車は最初からレースの参加を想定して作られており、グループAのレギュレーションに適合していた。プロイセン通りの設備だけでは目前に立ちはだかる課題に対応しきれなくなったため、モータースポーツ社は1986年にミュンヘン郊外のガルヒングに2つ目の拠点を設立した。

結果は、BMWにとって輝かしいものだった。BMWモータースポーツ・カラーをまとった白いレーシング・カーは、いきなり最初から連戦連勝、タイトルを総なめにしたのである。1987年には、イタリア人ドライバーのロベルト・ラヴァーリアがBMW M3でツーリングカー世界選手権のチャンピオン・タイトルを獲得している。

4バルブ4気筒エンジンと標準装備の触媒コンバーターを搭載した最高出力195psのこの高性能セダンは、将来のモータースポーツの進路を定めるポイントとなった。その後5年間、M3は国際的なツーリングカー・レースで数々の好成績を収めた。ツーリングカー・ヨーロッパ選手権で2回、ドイツ・ツーリングカー選手権(DTM)で2回優勝し、そのほか多数の国際レースや選手権を制するなど、最も成功したツーリングカーとなった。

それだけでなく、M3はロード・カーとしても予想を超える販売台数を達成した。初代BMW M3は、2.5リッターのM3 Sport Evolution 600台、手作業で組み立てられたM3カブリオレ765台を含む1万7,970台が販売された。さらにM3は、スポーティ性と環境保護が必ずしも矛盾しないことを証明した。その性能からみて、M3はガソリン消費量が少ないことでも無比の存在だった。

 

 

新しい市場:ツーリング仕様も用意された第2世代のM5

1988年には、第2世代のM5が登場した。直列6気筒エンジンの排気量は3.6リッター、後に3.8リッターとなり、最高出力は315psあるいは340psに向上した。ほかにも変更された点があった。それは、エンジンの社内生産コードに付けられる識別記号が「M」から「S」に変わり、これが将来的にモータースポーツ社のエンジンを示すようになることだ。顧客は一目で違いを識別することができる。M3 4気筒エンジンと同様に、従来の「BMW」ロゴに代わって、これからはバルブ・カバーに「M Power」と明記されるのだ。まずはセダン・タイプのM5が市場に導入され、1992年初めにはツーリング・タイプが登場したが、これは傑出したスポーツ・カーと高級な輸送車両の個性的な融合となった。

1990年に次の3シリーズ・モデルが準備万端となった頃、モータースポーツ社は、1992年に市場デビューするニューBMW M3の開発にすでに着手していた。ただし、クーペの外観は、もはや印象的なスポイラーと横に張り出したホイール・ハウスで飾られてはいなかった。ニューM3のパワーは時流に合わせて控えめに隠されており、M3をよく知る人だけがそれを細部に感じ取ることができた。それはもちろん、最高出力286ps、排気量3リッターの4バルブ6気筒エンジンが発する紛れもないサウンドのことである。

また、このM3 6気筒エンジンは、インテーク・カムシャフトの無段階調整システム、いわゆるVANOS制御が採用された最初のBMWエンジンである。特許を取得したこのMシステムは、特に低速域と中速域でトルクを改善する。BMWが独自に開発した毎秒2,000万回というコマンド演算能力のエンジン・マネージメントが初めて搭載されたことも、この車両のユニークな点であった。

 

 

「カー・オブ・ザ・センチュリー」:第2世代のBMW M3

このM3は、たちどころに顧客とメディアから好評を博した。直ちに大量の受注があり、間髪入れずにタイトルや表彰を獲得したのである。ドイツの「sport auto」誌の読者は、すべてのBMW 3シリーズの中で最も俊敏なこの車両を2回連続で「カー・オブ・ザ・イヤー」に選び、フランスの「Auto Plus」誌の読者はほかの高級車と比較してM3を「カー・オブ・ザ・センチュリー」に選出した。米国での市場導入直後、「Automobile Magazine」誌の編集部は、この新しく登場したスターに「カー・オブ・ザ・イヤー」の称号を与えた。これは輸入車では初の快挙だった。

今回は、計画当初からカブリオレ・バリエーションとより優れた快適性が追求されたセダンが含まれていた。少量生産されたM3 GTは、従来の性能の上限とされた295psを実現した。1992~1996年の間に、モータースポーツ社はこのM3をベースにして3シリーズの4ドア・レーシング・カーを85台以上生産した。ジョニー・チェコットが1993年にADAC GT選手権で優勝を果たすと、米国のモータースポーツ市場を席巻した。そして、1996年には、最高出力400psのPTG M3でIMSAタイトルを獲得した。

ほかのBMW車両と同じように、M3は個人的な要望に応じてカスタマイズすることが可能である。新たな業務分野として、1992年にBMW Individual(BMWインディビデュアル)がモータースポーツ社の従来の業務に追加された。BMW Individualでは今日に至るまで、モデル・プログラムをベースに個別の要望に応じて、通常のオプション装備の範囲を超えるカスタム・メイドを実現している。特に、個性的な塗装やインテリア装備、個別のオーダーによる改造や専門的な通信エレクトロニクスのニーズが高い。

モータースポーツ社は、これにより改めてパイオニアとしての地位を確立し、この事業分野を通じて、個性の尊重という社会的トレンドを自動車産業においても実現させることに成功した。BMW Individualは、顧客志向の最高の形である。

新しい事業分野はモータースポーツ並みの速度で急成長し、これによりさらなる適応が必要となった。たとえば、多彩なBMW Individualプログラムの枠内で愛車をカスタマイズしたい顧客や、BMWドライバー・トレーニングに参加したい顧客は、従来の「モータースポーツ社」という名称からは自身のニーズとの関係性を判別できないため、会社全体の新しい名前が必要になったのである。そうなると、社内で「世界で最もパワフルな文字」と定義された、かの有名な「M」以上に適切なものは考えられなかった。こうして、1993年8月1日付でかつてのBMWモータースポーツ社はBMW M社に社名変更された。

1995年には、ベストセラーのM3がさらなる推進力を発揮し、広範囲に及ぶ進化を遂げた。最高出力とトルクが一層向上し、排気量3.2リッターで321ps、つまり、1リッターあたり100ps以上を達成するようになり、競合他社に新たな基準を打ち立てた。さらに、インテーク側とエグゾースト側両方のカムシャフトの可変バルブ・タイミング・システムとして開発されたダブルVANOSが初めて採用された。このパワーは、標準装備の6速トランスミッションを介してリヤ・ホイールへと伝達される。

 

 

世界初のトランスミッション・テクノロジー:SMG

BMW M社はM3にオプションとして、世界の他の自動車メーカーに先駆けてシーケンシャルMギヤボックス(SMG)を装備した。SMGは、M3の従来のトランスミッションをベースにした構造で、ギヤ・チェンジの際にクラッチが電子式油圧制御で作動する。したがって、M3のドライバーはもはやクラッチ・ペダルを踏んで操作する必要がなく、単にシフト・レバーを押し引きするだけで瞬時にギアを1速変えることができる。初めのうちこそ懐疑的に受け止められたが、やがてブームが到来した。生産終了間際にはM3のほぼ2台に1台がSMGギヤボックスを搭載していた。

また、1995年には、M Powerの別のエンジンが素晴らしい勝利を収めた。750iエンジンをベースにした6リッターの大型12気筒エンジンが、ル・マン24時間耐久レースでクローズド・ボディのマクラーレン・スポーツ・カーの優勝に貢献したのだ。

4バルブ・テクノロジー、チタン製クランクシャフト、アルミニウム製クラッチにより、V12は600ps以上を実現した。これも、パウル・ロシェが作り出したエンジンであり、マクラーレンの責任者であるゴードン・マレーと協力して元々は究極のロード・スポーツ・カーとして、F1マシンを開発した。BMWにとってこのエンジンの最高の成果は、1999年に有名なル・マン24時間耐久レースでBMW V12 LMRが総合優勝を飾ったことである。

もっとも、その時点でこのエンジンはすでにBMW M社の製品ではなかった。1995年末に英国でBMW Motorsport Ltd.が設立され、BMWグループにおけるすべてのモータースポーツ活動をこの会社が取りまとめることになったのである。以来、BMW M社は、BMW M車両、BMW Individual、BMWドライバー・トレーニングの3つの事業分野に焦点を絞ることになった。

 

 

ユニークで型破り:MロードスターおよびMクーペ

1997年、リヤにシンボリックなMを付けた、次のスポーツ・カーが登場した。「究極のドライビング・マシン」と銘打たれたM ロードスターは、Z3ロードスターとM3の321psエンジンの魅力的な組み合わせを実現しただけではない。この個性的な車両は、その時点のBMWロードスターのラインナップにおけるハイライトでもあった。その直後に登場したM クーペは生粋のスポーツ・カーであり、同様にM ロードスターをベースにしてM3エンジンが搭載されたが、まったく独自の魅力を備えていた。そのボディには、高い機敏性とドライビング・ダイナミクスが具現化され、駆け抜ける歓びに加えて日常の使用に関わる多くの利便性が集約されていた。たとえば、魅力的なデザインのリヤ部分にあるコンパートメントに2つのゴルフ・バッグを容易に収納できるのだ。

 

 

1998年:400psの8気筒エンジンを搭載したM5

1998年にBMW M社が第3世代のBMW M5を導入したことにより、この自動車セグメントにまったく新しいドライビング・ダイナミクスの局面が切り開かれた。もちろん、この成功した5シリーズのスポーティなトップ・モデルにおいても再び控えめな表現がメッセージとして取り入れられた。そのため、ニューM5も外観については、詳しく知る人のみが新デザインのフロント・エプロン、大きな冷気インテーク、ワイドなアロイ・ホイール、M ロードスターとM クーペで採用されていた4本のテール・パイプなどからその違いを識別することができた。

M5の中枢は初めて完全に新開発された8気筒エンジンであり、これにより卓越した出力とトルクを生み出すことができるようになった。この優れた搭載エンジンにより、約300kW(400PS)の出力と約500Nmの最大トルクが達成される。すでに先代モデルで定評ある標準装備となった、正確に切り替わる6速トランスミッションがニューM5にも装備された。

 

 

2000年:刺激的なデザインの第3世代のM3

BMW Mのエンジニアは、エンジン技術向上に努めただけでなく、第3世代のM3では再びサスペンションにハイライトを当てた。2000年にデビューしたM3にはフローティング構造のブレーキ・ディスク、いわゆるコンパウンド・ブレーキが装備された。通常のシステムと比べて、熱伝導性に優れ、耐久性が向上していることがその利点である。このニューBMW M3に付加されたものはそれだけではなく、パワー、走行ダイナミクス、独自性と全般にわたって強化されている。343ps、365Nm、0-100km/h加速が5.2秒と、それは数値にはっきりと表れている。ニューM3の抜群の性能と卓越した走行ダイナミクスは、先代モデルとは異なり、刺激的なデザインによって明確に強調された。しかし、日常の機能性の高さは変わらなかった。傑出した多くの特長のおかげで、M3は高性能な自動車として再びその車両クラスで先導的な役割を担うことになった。

1年後、M3は日常性を脱ぎ捨て、レースに挑むことになった。M3 GTRは、4リッター・8気筒エンジンによって初めてアメリカン・ル・マン・シリーズでスタートを切った。特徴的なエンジン・フードのエア・インテークとパワフルなリヤ・スポイラーを備えたこのレーシング・カーは、米国のレーシング・コースでその優位性を証明し、GTクラスの選手権で勝利した。これは、2002年のBMW M社創立30周年を祝うにふさわしい成果だった。

 

 

2003年:CSLの復活

BMWの流儀で祝杯は上げられた。それは、非常に特別な車両であるM3 CSLの開発だ。3つの頭文字は「Coupé Sport Leichtbau(クーペ、スポーツ、軽量構造)」を表しており、これは本質的に最も重要なことを説明している。ルーフ、センター・コンソール、ドア・トリムは炭素繊維強化プラスチック製で、リヤ・ウインドウは軽量化され、快適性を追求するための数多くのコンポーネントが割愛された。

360psにパワーアップしたエンジンを搭載したCSLは真のコーナリングの魔術師であり、印象的にそれを証明した。ニュルブルクリンク北コースにおけるテスト走行で、CSLはこの車両クラスとしては驚異的なタイムである7分50秒をマークしたのだ。2003年にCSLは市場導入され、数カ月のうちに1,383台が完売した。

その間に、米国のレギュレーションが変更されたため、M3 GTRはピットに入ったまま走行できなくなってしまった。この8気筒エンジンを搭載した3シリーズにはまだ十分な競争力があり、当然ながら引退させるには時期尚早だった。そこで、ニュルブルクリンクの耐久レースに合わせた改造が行われた。その結果は素晴らしいものだった。2004年、M3 GTRはアイフェルの24時間耐久レースで世間を驚かせるダブル優勝を果たし、翌年も2回目の勝利を手にした。

 

 

2004年:10気筒エンジンを搭載したM5およびM6

遅くとも2000年頃からは、Mモデルが話題にならなかった年はないと言える。2004年秋、販売台数2万台を達成した先代M5の後継にあたるニュー・モデルが登場した。この5シリーズは、最も気品にあふれていると同時にかつてないほどパワフルだった。排気量5リッター、10気筒、最高出力507ps、最大トルク520Nm、エンジン回転数はレブリミットが8,000rpmを超えるというものだ。この数値は、BMWスポーツ・ドライバーに対して、これまで見たことのない形で日常用車両と厳しいレース用車両の境界を取り去っている。

第4世代のM5はこの性能値によって、高性能スポーツ・セダン・セグメントの新たなベンチマークを打ち立てた。このM5は8気筒エンジンの先代モデルと比べて出力が25%以上向上し、1リッターあたり100psオーバーを実現している。その性能はもはやモータースポーツのレベルにあると言える。V10エンジンと7速SMGとの組み合わせにより、ほかの量産型セダンを遥かに凌駕する走行性能が実現した。0-100 km/h加速は4.7秒、0-200km/h加速は約15秒である。車速250km/hで、通常は電子リミッターにより前進力がカットされる。

わずか数カ月後に、同じエンジンを搭載したM6が登場した。サスペンションはボタン調整が可能で、大型のクーペにはM3 CSLと同様に炭素繊維製のルーフが装備された。もちろん、M6も工場出荷時に制限された250km/hより速く走行することが可能である。そのため、BMWは閉鎖されたコース内で行うドライバー・トレーニングを通じて、より高い最高速度を体験する機会を提供している。

2006年、M社は新世代のスポーツ・カーであるBMW Z4を投入して、製品ポートフォリオを拡張した。Z4 MロードスターおよびZ4 Mクーペの両2シーターには、M3の並外れた343psの6気筒エンジンが搭載され、その最高速度は250km/hにまで達した。クーペをベースにして、数多くのワークス・レーシング・カーが誕生した。これらには最高出力430psに達する6気筒エンジンが装備され、多くのライバルを打ち負かすことに成功した。2009年と2010年には、ニュルブルクリンクのVLN耐久レース選手権の16レースのうち11レースでZ4クーペが勝利した。2010年以降、後継モデルはZ4 GT3と呼ばれており、このレース仕様の最新型Z4ロードスターは4.4リッターの8気筒エンジンを搭載し、モータースポーツを行う顧客向けとなっている。

 

 

2007年:8気筒エンジンを搭載した初代M3

15年後の2007年、新世代のM3には、それまで何度も「エンジン・オブ・ザ・イヤー」の表彰を受けた直列6気筒エンジンに代わる新しいエンジンが採用された。クーペと、間もなく誕生したセダンに、初めて8気筒エンジンが使用されたのだ。排気量3,999ccの新しいV8エンジンが発生させる最高出力は420psに達する。6,500rpmの非常に広い回転域にわたって最大トルク400Nmの約85%を発揮することが可能だ。リヤ・ホイールへの動力伝達は、6速マニュアル・トランスミッションおよび完全に新しく開発されたリヤ・アクスル・ドライブで行われる。特にクーペでは、設計者がより多くの軽量構造を採用した。別のMモデルでのプラスの経験から、ここでもルーフは炭素繊維強化プラスチック製、エンジン・フードはアルミニウム製となった。

初のシリーズ・モデルの生産開始から30年が過ぎ、2008年にBMW M社は30万台目の車両を納入した。その間に、BMW M社の車両ポートフォリオは9モデルに拡大していた。BMW Z4 MロードスターとBMW Z4 Mクーペの343psの直列6気筒エンジン、BMW M5とニューBMW M5ツーリング、BMW M6クーペ、BMW M6カブリオレの507psのV10エンジンなど、自動車は、高回転数コンセプトからそれぞれ個性的な特徴が導き出されたエンジンによって駆動している。現在はBMW 1シリーズ、BMW 3シリーズ、BMW 5シリーズ、BMW6シリーズ、BMW X3、BMW X5の各モデルで提供可能となっているSportパッケージの販売台数についても、M社は大幅な伸びを記録している。

 

 

2009年:未来の駆動システムとしてパワフルに帰って来たターボ・エンジン

もちろん、その拡大の勢いは始まったばかりだった。2009年、BMW X5 MおよびBMW X6 Mにより、BMW M社の車両のハイ・パフォーマンス特性がBMW Xモデルのセグメントでも初めて実現された。開発に伴って、新しいV8高性能エンジンが誕生したが、その性能特性は両モデルの特徴に正確に合わせられている。最高出力555psのM ツインパワー・ターボは、シリンダー・バンクにまたがるエグゾースト・マニホールド付きでツイン・スクロール・ツイン・ターボ・テクノロジーが採用された世界初のパワー・ユニットである。ターボ・チャージャーと触媒コンバーターは、シリンダー・バンクの間にあるV字セクションに配置されている。この構成により、M特有のすばやいレスポンス、リニアな出力特性、コンスタントなトルク特性が実現される。

車両の性能特性に関して特に要求の高い顧客向けに、BMW M社は同年、BMW M3クーペをベースにした、クラブ・スポーツ・イベントの参加にも最適なスーパー・スポーツ・カーの提供を始めた。このBMW M3 GTSは、顧客の希望に応じてBMW M社の製造工場で受注生産される。モータースポーツでの使用を想定して行われた変更点には、駆動システム、サスペンション・システム、ボディ、インテリアが含まれる。モータースポーツ向けの設計原理と技術詳細がそのまま取り入れられており、8気筒エンジンの排気量は4.4リッターに拡張され、最高出力は約450psに向上している。

 

 

現状:最高のパフォーマンスを備えた会社

2010年末、M社は製品プログラムを再び拡大して、コンパクト・クラスに340psの1シリーズMクーペをデビューさせた。Mツインパワー・ターボとガソリン直接噴射を備えた直列6気筒エンジンががっしりとした軽量構造の車両に搭載されており、わずか4.4kg/PSというパワー・ウェイト・レシオで軽い走りを可能にする。

その数カ月後にはニューM5が追加され、これには、最高出力560ps、最高速度305km/hに達する新開発の8気筒ターボ・エンジンが搭載された。

 

 

ディーゼルに向かうM

今日のBMW M社の礎が築かれてから40年が経過し、エキスパートたちはスポーティ性に関する新たなプロジェクトに着手した。スポーティ性と日常的な機能性の完全な両立、および卓越した効率性の追求という明確な方向性を持つBMW M Performanceシリーズを導入し、モデル・ラインナップの拡大を行うというものである。新しい製品カテゴリーは、BMW M550d xDriveセダン、BMW M550d xDriveツーリング、BMW X5 M50dおよびBMW X6 M50dの4モデルでスタートする。その中枢となるのは、BMW M Performanceシリーズ専用に新開発された、3個のターボ・チャージャーを備える最高出力381psの直列6気筒ディーゼル・エンジンである。

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